【授業研究】昨日のブログに書いたことで、私が授業改善の実践に評価的な発言をしたようにとられた部分があったかもしれません。私はみなさんよりもたくさんのAL型授業を実施してきましたし、たくさんの授業を見学してきました。その経験から見ると、それぞれの授業に見た目の上での優劣はあります。しかし、生徒にとってどんな効果があったのかはなかなかわかりません。そこでそれぞれの授業の優劣を評価することはしていないつもりです。
ましてや、授業者としてのその人の優劣を評価することはできないと思っています。もし私が評価すれば、それが元になって「高く評価された」「低く評価された」と争いになりそうです。ある人が「A先生はまるで自分こそが小林先生の授業そのものを実践していると豪語していますが、全然違うんですよ!」と憤慨していました。この方自身が「自分こそ、小林の授業を最も理解している」と自分自身を誤解していると思っています。そんな発言でその方は「小林を最も理解しているのは俺だ」と自己評価し他の人の上に立とうとしているのかもしれません。その上で様々な実践をしている授業者を評価して序列を付けて、人を惑わせているのかもしれません。この方は授業者でもないことに私はとても不思議な気がしています。このような人は多くいそうな気がします。こうやって「評価する・される」渦の中に多くの人たちが巻き込まれ、対立していくことを恐れています。アドラーが承認欲求を否定すると言っていることの価値がよくわかります。
私は授業改善を授業者一人ひとりの人間としての成長の原動力にしたいと思っています。お互いの授業実践はお互いの授業改善のヒントになると思っています。その意味では全ての授業実践には価値があります。私の授業実践も誰かの授業改善のヒントになる可能性が高いと思って発信しています。私が「気になる」「気が付いた」と発言するときは、ただそれだけの意味です。私と違うから駄目だ、などの意味ではありません。でも誤解が少なくなるように気を付けて発言しようと思います。