再び「セレモニー」について考える(1)

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【授業研究】以前、「杉江修治氏のセレモニー」について書いたところ「セレモニーは必要か不必要か」と趣旨と異なる話題で炎上しそうになったので最初にお断りです。この項は「セレモニーが必要かどうか」の議論のためではなく、授業や学校生活において、その目的を考えないで実施していることについて「再考したい」だけです。

 出典は「協同学習入門(杉江修治著/ナカニシヤ出版)」、以下の文章です。「(2)教育観の転換を」の「1)授業に見るセレモニー(p-2~)」の部分です。著者は次のように始めます。
 (引用開始)これまでの授業には「セレモニー」に過ぎないのではないか、すなわち、実効性はないにもかかわらず、授業の中でやることになっていると、教師も子どもも暗黙に了解し合っている儀式のような学習ステップが多くあるように思います。
 そのセレモニーの間、子どもたちの頭の中は十分には働いておらず、おのずから授業は隙間だらけの間延びしたものであり、真剣味の少ないものだということを子どもたちに教えてしまうことになります。(引用終了)

 杉江氏のいう『セレモニー』は「実効性がないにもかかわらず授業の中でやることになっていると教師も子どもも了解している学習ステップ」と定義できます。そしてそれを繰り返すことの弊害は2段階になります。①『セレモニー』の間子どもたちの頭は十分には働かない。②授業とは隙間だらけで間延びしていて真剣味の少ないものであると教えてしまうこと。杉江氏はその具体例を以下のように列挙しています。

(a)授業開始時の前時の振り返り。
(b)子どもに考えさせたのちの発表。
(c)指示が曖昧なグループワーク
(d)振り返りもせずに「わかりましたね」で授業を終わらせる。
(e)2,3人の子どもに感想を言わせて終わる授業。

 これ以外にも杉江氏は実に鋭く、時には辛らつに授業における『セレモニー』を指摘しています。こうして『セレモニー』が続くことで子どもにも、そうやって育てられた大人にも色々な問題が生じていると思われます。更に、先生たちにもその惰性が授業以外のところにも広がっている気がします。昨日(2021/4/30)取り上げた「研修会講師の長い自己紹介」もその延長線上にあるような気がします。職員会議の在り方などもそうかもしれません。ゴールデンウィーク中は少しこのことについて考えていきます。[この項続く] 

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