再び「セレモニー」について考える(4)

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【授業研究】杉江氏のいう『セレモニー』は「実効性がないにもかかわらず授業の中でやることになっていると教師も子どもも了解している学習ステップ」と定義できます。そしてそれを繰り返すことの弊害は2段階になります。

第1段階は次の2点です。
①『セレモニー』の間、子どもたちの頭は十分には働かない。
②授業とは隙間だらけで間延びしていて
 真剣味の少ないものであると教えてしまうこと。

第2段階は次の3点です。
③先生たちは「授業は隙間だらけ」ということを子どもたちに教えている。
④子どもたちは
 「隙間だらけの授業に参加すること」=「きちんと勉強している」
 と理解する。
 更に大事なことは、
⑤先生たちも「隙間だらけの授業(研修会等)」を、
  実施することも受講することも「きちちんとしていること」と理解する。
 この⑤を先生たちがすんなり受け入れてしまうのは、先生たちは「元・児童生徒」であることがとても大きい気がします。

 さて、ここで杉江氏の『セレモニー』の定義を更に抽象化して考えてみることにします。氏の定義は「授業」を対象にしていますが、これを「本来、出席者全員がアタマを働かせて問題解決や自己成長を目指す場」ととらえ直すことにします。すると次のような場もその対象に入ってきます。会社や組織における「会議」「打合せ」「研修会」、組織外で行われて自主的に参加する「研究会」「研修会」などもそうなります。また立場も広がります。「先生にとっての授業」「講師にとっての研修会」も含むことになります。改めて抽象化(一般化)して『セレモニー』の定義は以下になります。

 「参加者全員がアタマを働かせて問題解決や自己成長を目的とする場で、その効果がないにも関わらず、〈やるべきことと全員が了解している〉プロセス」

 こう定義しなおすと、実にたくさんの『セレモニー』が横行していると感じます。先日のこのブログ「ひどいオンライン研修会講師?(2021/4/30)」で取り上げた事実をこれに当てはめるとよく理解できます。

 「あまり意味のない長時間の自己紹介」「延々と続くワンウエイの講義」「グループワークはやるけど意見交換や振り返りはしない」「予定時間をオーバーしても講師は悪びれない」‥。これらはこの講師が「自己紹介・講義・グループワーク・延長」などを『セレモニー』としてとらえて実施していると考えると理解できます。たぶんご本人は上記のことをやりながら「黙っている参加者」「質問をしない参加者」「文句を言わない参加者」の在り方にも満足しているのだと思います。黙っていることはこれらをやることは〈全員が了解しているプロセス〉=『セレモニー』だからです。[この項続く]

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