再び『セレモニー』について考える(6)

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【授業研究】杉江修治氏の『セレモニー』をより一般化(抽象化)してとらえると「本来の目的に照らし合わせて〈効果がないにも関わらずほぼ全員がやるべきことと了解しているプロセス〉」と表現できます。授業であれば「先生も生徒も」、会社等なら「上司も部下も」、〈やるべきことと了解している〉ので、「それをやることで目的を達成したかのような満足感を得る」ことになります。

 子ども(児童・生徒・学生)は「授業中に黙ってその場にいれば」、〈授業を受けた〉と満足します。何かがわかったとか、行動が変わるほどのインパクトがなくても「先生に言われたとおりに動けたら(叱られなかったら)」、〈授業を受けた〉と満足します。会社で働く社会人も「会議に参加していれば」、〈会議に出て仕事をした〉と満足します。

 学校の先生たちは校内研修会で、授業改善につながる行動変容のヒントなどなくても、講師の話を黙って聴いたら、〈研修会を受講した〉と満足します。某校長が「校内研修会は〈講師の話を聴くことが〉目的になっているのよ!」と叫んだことが印象に残っています。自主的に遠隔地まで出かけてイベント的な研修会に参加する先生たち、最近はオンラインで色々なオンライン研修会に参加する人たちも〈受講したこと〉が満足になっているような気もします。

 授業や会議をリードする人=学校の先生・校長や会社の社長・上司なども、『セレモニー』をすることで満足します。子ども(児童・生徒・学生)たちが「黙って聴いていたり」「言われたとおりにペアワークやグループワークをやっていたら」、「良い授業をやった」「良い会議だった」と満足します。これは「選択理論」の〈力の欲求を満たす〉の視点からもうなずけます。

 だから「起立・礼」という『セレモニー』をきちんとすることが大切になります。先生が説明しているときに生徒たちが「黙って聴いていることで」、満足します。「長く話して長く生徒たちが黙っていてくれるほど満足する」ような気がします。生徒たちもと同様に『セレモニー』を「きちんとやっていること」に満足しています。

 そう考えていくと「アクティブラーニング」や「主体的・対話的で深い学びの実現」などの実現はとてつもなく難しいことのような気がします。その一方で、私は高校物理授業でも大学の授業でも、生徒・学生が「こんなにアタマを使う授業はなかった」「楽しくて疲れるほどアタマを使った」と喜んでくれる授業を実践してきたという事実もあります。たぶん彼らは私の授業では『セレモニー』をする満足よりも、〈疲れるほど頭を使う〉満足の方が大きかったのでしょう。「体験すればわかる」ということなのかもしれません。生徒・学生相手には簡単なことでした。大人、特に学校の先生たちに理解してもらうことはなかなか難しいことなのかもしれません。

 新しく始めたGCS(グループ・コンサルティング・サービス)はこの『セレモニー』を最小限にする構造になっているかもしれません。対面の講義も、オンラインでの講義も、自己紹介も謝辞もほとんどないからです。というより、そのことを意識して進めていきたいと改めて感じています。

 読者の皆様には「長く堅苦しい文章」にお付き合いいただき感謝申し上げます。「具体と抽象」を意識した文章構成のトレーニングでもありました。いずれ雑誌連載や単行本ではもっと整理して発表します。[この項終わり]

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