再び『セレモニー』について考える(5)

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【授業研究】長い連載記事で何をやっているのかと言うと、「具体的な論理」を「抽象的な論理」へと抽象化して考えています。この作業はどんな論理に対しても実行可能です。しかし、その「抽象化した論理」が正しいかどうかは別物です。そこは検証する必要があります。科学の世界で言えば、「すでに検証されている理論」に対して、「仮説を立て、実験・観察をして確かめる作業」に似ています。

 杉江氏の『セレモニー』の定義を「授業中のステップ」から「組織・チームが問題解決や自己成長を目的とする場」へと適用範囲を広げました。この世界で本来なら「みんながアタマを働かせなくてはならなはずなのに、実際にはアタマを働かせていない上に、〈やるべきことと全員が了解しているプロセス〉が本当にあるのかどうかを確かめる段階に入っています。

 昨日(2021/5/4)の記事では「研修会における講師の活動」に着目しました。「あまり意味のない自己紹介」「延々と続くワンウェイの講義」などは、この講師が〈あまり効果がないにも関わらず、やるべきことと了解している〉ことを現しています。そして彼は〈やるべきことをやった〉ので、役割を果たして満足していることと思います。この方の講師歴は20年間ということなので、長い間の習慣になっているのかもしれません。

 ここで気が付いたのは次のことです。講師・リーダーは『セレモニー』をやることによって、〈やるべきだと理解していることをやったので満足している〉ということです。これは、杉江氏が論じている「授業のステップ」でも起きています。先生たちは「前時の振り返りをさせたり」「何人かの生徒を示して答えさせたり」「わかりましたね、と言って終わりにする」などの『セレモニー』を実行することで「満足している」ということです。

 この数年間のアクティブラーニング・ブームの中では、新しい『セレモニー』が追加された感があります。「グループワークをさせる」「ペアワークをさせる」「話し合いの結果を発表させる」「振り返りシートを書かせる」、更に「ICT機器を使う」「生徒たちにPCやタブレットなどの端末を使わせる」‥なども『セレモニー』の中に入ってきているような気がします。この現象自体は「形骸化」ということもできますが、先生たちが「やるべきことをやった・やらせた」ことを通して〈やるべきことをやったと満足している〉ことに重点を置いて『セレモニー』と呼びたいものです。

 元々、杉江氏は『セレモニー』は「全員が了解しているステップ」と定義しています。全員とは授業では先生(講師)と児童・生徒・学生を指しています。一般化したところで講師が〈やるべきことをやったと満足している〉ことを指摘しました。では受講している側、今度は子どもだけではありません。会社内、学校内での「研修会」を受講している社員・教員は『セレモニー』をどう感じているのかを検証する必要があります。[この項続く]

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