【山田さんの思い出④】2016年4月で産能大入試センターを退職して癌治療に専念していた山田さんは、治療中も副作用が出る何日間かをのぞくと元気でした。その動きにくい時でもメール、メッセンジャー、電話でやりとりを続けていました。私の仕事のサポートは滞ることなく続けていてくれました。私は癌とは「こうしてうまく付き合えば少しもこわい病気じゃないんだなあ‥」と軽視していました。
2016年の5月からの治療は夏ごろには終了し、元気な日々を送っていたのに12月に再び検診で発覚。2017年年明けから治療再開。この時にこれまでと少し違うことが現象しました。投与予定日に「白血球値が低い」と帰されてしまうことが続くようになりました。日程がずれ込み、通常なら3か月程度で4回の投与だったのが、4~5か月に伸びてしまいました。4回目の投与は白血球値が低くて投与しないことになったような気がします。それでも日常生活にはほとんど支障がなく山田さんは元気に生活をしていました。
その後、7月か8月に再び検診でひっかかり、抗がん剤治療を始めたところ、「アレルギーが出て中止」という、今までに聞いたことがない話が出てきました。私にはこの意味がよくわからなかったのですが、それからしばらくして、9月になっていたような気がしますが、病院に行った山田さんから「治療について会ってお話したい」と連絡がありました。私たちが打合せでいつも使う自由が丘のお気に入りの喫茶店での話は「アレルギー反応が出て、これ以上の標準治療はできないと言われました」「え?」「もう手がないということです」‥「え?」‥山田さんが泣き始めました。ようやく意味が分かりました。医者が見放したということです。
私は茫然としていました。何も言えず、山田さんが泣くのを見ていました。しばらく泣いた後で、「何ができるのかを彼とも相談します」「すぐに体調が悪くなるわけではないので、まだ、小林さんの仕事はできます。続けて良いですか?」‥「もちろんお願いします。でも、無理のない範囲でしてくださいね。いつでもギブアップしてくださいね」と返事をしました。
この時は迷いました。もう仕事をやめさせた方が良いのではないかと何度も思いました。しかし、医者が見放したところで、私が仕事を辞めさせたら、「小林にも見放された」と感じるのではないかと思いました。QOLを維持するには仕事をしていた方が良いということは知っていました。でも、依頼する側は辛いものがあります。どこで辞めてもらうのか‥その判断をどうするのか‥私にとってもとても辛い日々が始まることになりました。[この項続く]