私を温かくサポートしてくれた山田さん

【山田さんの思い出➀】本日、山田香織(本名:神田香織)さんの告別式が終わりました。悲しさ、悔しさ、もどかしさ、そして感謝の気持ちが次々に湧き上がり混乱し続けています。私の気持ちの整理のためと、山田さんの最期の時期に比較的近くにいた者として山田さんの思い出を記しておきます。

 私が産業能率大学に入職したのは2014年4月でした。「アクティブラーニング」という言葉が少しずつ広がり始めていました。この年の3月から日本教育新聞に「アクティブラーニングが授業を変える」と題した連載も私は始めていました。

 この年の秋に山田さんは本学入試センタ―にパートタイマーとして勤めだしました。元々は私立中学高校の数学教師として仕事をし始めた山田さんでしたが、しばらく務めるうちに「合わない、無理」と感じて退職したとのことでした。その後、様々な仕事をしたのですが、その一時期に入試センター勤務も含まれていました。その後、別の仕事をしていた時期(2013年12月)に癌が発覚。仕事をやめて治療し、回復しました。

 元気になってきたところで、入試センターのメンバーとの縁もあり、リハビリを兼ねて少しずつ仕事ができるパートタイマーとして再び入試センターに勤め始めたのが2014年の夏でした。

 そのころの私は「アクティブラーニング」の広がりとともに講師依頼が急増し事務処理にかなりストレスを感じていました。それを見かねた入試センターの部長が「秘書を雇えば?」と提案してくれました。偶々、その直前に文部科学省のお金をもらう仕事引き受けたところ「会社組織にしてほしい」と依頼され、税理士さんに全部任せて会社の形にしてありました。そこで会社が山田さんと業務提携という形で秘書としての仕事をお願いすることにしました。

 この時の私は実にナーバスでした。私は元々、人付き合いが苦手で人見知りします。しばらくお付き合いがあって、ある程度親近感を持ってからなら依頼もしたと思います。しかし、部長からの提案の時までに私は山田さんが入試センターにいるどの人なのかもわかっていませんでした。自分が苦手なタイプの人だったらどうしようか‥とドキドキしていました。

 直接お会いしたとたんに全て杞憂だったと感じました。優しい人でした。温かい人でした。事務処理の能力も高く、私のストレスはあっという間に解消してしまいました。最初の山田さんの大活躍は2015年5月の出版記念パーティーでした。告知案内メールの発送、受付確認の返事、当日の会場手配や打ち合わせ、ボランティア学生の取りまとめや当日の指揮‥私は何もすることがない‥という感じでした。

 その後も色々な仕事を山田さんにお願いしていきました。講師依頼のメールのやりとり、電話での対応、日程調整、移動計画作成、ホテル・切符・航空券の手配‥それも実にきめ細かく‥少しでも安く、少しでも移動の身体への負担を少なく‥と心がけてくれました。一時期私が体調を悪くしてるときは、研修会講師の日程調整を整えるとともに先方に「小林は体調を崩しているのでお誘いはありがたいのですが、懇親会はご遠慮させていただきます」とか「20時には切り上げさせてください」などとメールをしてくれました。まるで私の母親のようでした。[この項続く]