山田さんの最期

【山田さんの思い出➆】11/13(月)山田さんのご自宅から会社のハンコなどを受け取って戻ってくると、すぐに「会社のスマホもお渡しするべきでした。どうしましょ?」とメッセージ。私のスケジュールを見て「来週、18(日)夕方着で送ってください」と返事、これに「かしこまりました。他にも何かあれば一緒に送りますね」。

 このやりとりの感じでは、山田さんはスマホだけを送るのだと感じていました。ところが17(土)のメッセージでは「今、集荷に来てもらって荷物を出しました。結構大きくなりました。全部送ろうと思ったのですがPCの予備機を1台とプリンターだけは手元におきます。何かあったときにでも、これだけあればサポートできると思いますので」。

 今になって思えば、最悪の事態も考えていたかのように思われます。その一方で、力のある限り私をサポートする態勢も怠らないようにしてくれていたようにも思われます。このあたりは見事です。

 18(日)夜、荷物が到着。その報告のメッセージを送りました。

「荷物届きました。まだ空けていませんが『でかい!』ですね。

 空けるのは明日からの連続出張が終わってからにしようと思います。

 急いで確認すべきものがありますか?」19:26

この返事が20:30に届きました。

「急いで確認すべきものはないと思います。わたしの」

「症状が非常に悪く、朝霞医療センターに本日緊急入院しました」

 どきりとしました。でも、この病院は具合が悪くなったにすぐに行ける病院として、自宅そばですでに手配してあった病院です。何回か山田さんは通院していました。その意味では予定通りの対応なのだとも感じていました。私はすぐに以下の返信をしました。

「りょうかいです。出張から戻ってくる23(金)にお見舞いに行きますね」

これが私が送った最後のメッセージ。未だに「既読」になりません。

 この緊急入院のことは山田さんが尊敬する先輩・友人のWさんには知らせました。Wさんは山田さんのご主人とも親交があります。すぐに以下の返信がありました。

「一昨日LINEで、かおりんとやりとりしていたのですが、肝臓の腫瘍が大きくなっていると聞き心配していました。私は明日明後日と出張で東京にいないので、水曜日以降お見舞いしたいです。少し効きそうな抗癌剤が見つかったとも聞いていたのでちょっと楽観してしまいました。緊急入院、とても心配です」

 私も連続出張で23(金)までは動けないことを返信しました。

    11/19(月)。東京→名古屋→鳥取とに移動して夜、翌日の打ち合わせをしてホテルに泊りました。翌20(火)の朝5:00、Wさんからのメッセージを確認しました。

「旦那様より連絡がありました。11/19(月)20時40分に香織さんが逝去されたとの連絡がありました。納棺は22(木)、告別式は23(金)です」[この項続く]

山田さんの最期の仕事

【山田さんの思い出⑥】10/20(日)の大阪のオープンセミナーには山田さんは体調が悪くて参加できませんでしたが、その後も私の仕事のサポートはあまり変わりなく続けていてくれました。ある抗がん剤が12月から使えるようになるというので、それに対する期待も膨らみました。ただ、内臓エコーの結果は肝臓に転移。その影響が出てきていました。

 11月に入ると39度を超える発熱もありました。私のサポートは休み休みになりますが、それで続けてくれていました。私が「それは私がやっておきます」という仕事も少しずつ増えてきました。

 山田さんはこの状況の中でも情報を集め、新しい治療にチャレンジしていました。更に、その先も見通して準備をしていました。そのひとつが介護保険でした。傷病手当は2019年5月までという支給期間制限がありました。そのあとに継続するシステムとして介護保険があるとのことでした。山田さんのそれを見据えて調べ、申請し、担当者とのやりとりも始めていました。この精神力は凄まじいものがあります。もし私が山田さんの立場だったら、「辛い、苦しい、もう全部やめた‥」と自分の人生を投げ出していたと思います。

 11/12(月)。山田さんからのメッセージ。 

「〇〇社にセミナー謝金の請求書をお送りしたのですが、金額を間違えてしまい再送することになりました。入金も先になってしまいました。すみません」

 こんなミスは山田さんにはありえないことでした。私はここが仕事を切り上げさせるチャンスだと思いました。

「はは‥りょうかいです。明日の夜、池袋での会議の後でご自宅に伺いますよ。

 その書類の再送も私がやります。ハンコなどをお渡しください」

 すぐに了解の電話がありました。山田さんも「限界」と感じたのだと思います。この請求書の再送付は私が会社印等を取りに行く前に済ませてありました。この請求書の郵送が山田さんの最後の対外的な仕事になりました。

 ご自宅に行って少し話をして会社印等を受け取りました。思ったよりも元気そうでした。そして、いつも笑顔で対応してくれました。新しく来ていた子猫がいたずらするのを「これっ!ダメ!」と叱りながら抱き上げる様子は実に微笑ましい姿でした。

 「じゃ、しばらく事務的な仕事は私がやります。山田さんは治療に専念してくださいね」と挨拶して辞去しました。結果的には、これが私が山田さんの生前の姿をみた最後になりました。[この項続く]

 

 

 

闘病モードになってきた山田さん

【山田さんの思い出➄】医者に見放されて泣いていた山田さんは、翌週には力強さを感じる顔になってきました。「旦那に言われました。『病気を治すのは医者でも薬でもなく、香織自身なんだから』と。そうだと思いました。できるだけのことをやることにしました。小林さんが通っている漢方と鍼灸のお店を紹介してください」と言い出しました。

 私は大学に勤めるようになってから体調をかなり悪くしていました。移動の多い日々が原因だったようです。色々なことを試してみたのですが、どれもイマイチ。偶々、大学のそばにオープンした鍼灸&漢方の店に冷やかし半分で行ったところこれがピッタリ。現時点で約1年になる漢方の効果は大きいものがありました。身近でこれを見ていた山田さんは治療の選択肢の1つにこれを入れたということです。

 他にも沖縄の温泉水で身体を温めることも始めました。癌治療を受けている人たちの「患者の会」にも参加しました。標準治療にとらわれない治療をしている医者を見つけてきてこれも始めました。丸山ワクチンの治療をしてくれる医師も苦労して探してこれも始めました。毎日のようにどこにいってどんな治療を開始した、どんな情報を得た‥とメッセンジャーや電話で知らせくれました。

 9/23(日)の都内で開いたオープンセミナーには山田さんも出席してサポートしてくれました。元気でした。私は彼女が会場に来てくれているととても気持ちが安らぎます。時々目が合うといつもニコリとしてくれます。授業参観に来ている母親と目配せする子どものような気持ちでした。10/20(土)には大阪で某社のバックアップを得て新しいセミナーにチャレンジすることになっていました。私も山田さんもこれにワクワクしていました。その某社は山田さんの交通費も出してくれると言うので山田さんも行く気満々でした。とは言え、「泊りはいささか心配です。旦那も不安視しています。決断はぎりぎりでも良いですか?」「いいとも。ドタキャンでも気にすることはないよ」などと話していました。

 前日に「お腹が張ってきて痛いので、明日はやめます。残念です」とメッセンジャー。でも、10/20(日)には「セミナー成功、よかったです。私も痛み止めが効いて楽になりました」と返事が来ました。「でも体調は悪いです。2週間前にバスケしたとは思えないほどです。明日、病院に電話してエコーをとってもらう調整をします」。このころ、かなり強い痛み止めを使い始めていました。

 それでも山田さんは気丈でした。電話で話しても、あの時に泣いた山田さんではありませんでした。「癌と闘う戦士」のような力強さと明るさがありました。私は仕事を辞めさせたいのですが、なかなか言い出せなくなっていました。「奇跡が起きてほしい」と願うようになってきました。[この項続く]

山田さんの治療の行き詰まり

【山田さんの思い出④】2016年4月で産能大入試センターを退職して癌治療に専念していた山田さんは、治療中も副作用が出る何日間かをのぞくと元気でした。その動きにくい時でもメール、メッセンジャー、電話でやりとりを続けていました。私の仕事のサポートは滞ることなく続けていてくれました。私は癌とは「こうしてうまく付き合えば少しもこわい病気じゃないんだなあ‥」と軽視していました。

 2016年の5月からの治療は夏ごろには終了し、元気な日々を送っていたのに12月に再び検診で発覚。2017年年明けから治療再開。この時にこれまでと少し違うことが現象しました。投与予定日に「白血球値が低い」と帰されてしまうことが続くようになりました。日程がずれ込み、通常なら3か月程度で4回の投与だったのが、4~5か月に伸びてしまいました。4回目の投与は白血球値が低くて投与しないことになったような気がします。それでも日常生活にはほとんど支障がなく山田さんは元気に生活をしていました。

 その後、7月か8月に再び検診でひっかかり、抗がん剤治療を始めたところ、「アレルギーが出て中止」という、今までに聞いたことがない話が出てきました。私にはこの意味がよくわからなかったのですが、それからしばらくして、9月になっていたような気がしますが、病院に行った山田さんから「治療について会ってお話したい」と連絡がありました。私たちが打合せでいつも使う自由が丘のお気に入りの喫茶店での話は「アレルギー反応が出て、これ以上の標準治療はできないと言われました」「え?」「もう手がないということです」‥「え?」‥山田さんが泣き始めました。ようやく意味が分かりました。医者が見放したということです。

 私は茫然としていました。何も言えず、山田さんが泣くのを見ていました。しばらく泣いた後で、「何ができるのかを彼とも相談します」「すぐに体調が悪くなるわけではないので、まだ、小林さんの仕事はできます。続けて良いですか?」‥「もちろんお願いします。でも、無理のない範囲でしてくださいね。いつでもギブアップしてくださいね」と返事をしました。

 この時は迷いました。もう仕事をやめさせた方が良いのではないかと何度も思いました。しかし、医者が見放したところで、私が仕事を辞めさせたら、「小林にも見放された」と感じるのではないかと思いました。QOLを維持するには仕事をしていた方が良いということは知っていました。でも、依頼する側は辛いものがあります。どこで辞めてもらうのか‥その判断をどうするのか‥私にとってもとても辛い日々が始まることになりました。[この項続く]

山田さんの癌治療、バスケ、結婚、仕事‥

【山田さんの思い出③】山田さんは2013年12月に癌が見つかり治療し、2014年秋から産能大入試センターでパートタイマーとして勤務し始めました。そのころから私との仕事も始まりました。私は彼女が以前にがん治療をしていたことは聞いていましたが、元気なので癌は完治したのだろうと思っていました。入試センターの仕事と私の仕事をこなし、更にバスケットにも熱心でした。

 このバスケットは山田さんを語るときに欠かすことはできません。山田さんはバスケットが大好きなのです。生活はバスケットの練習や試合の日程が中心でした。私の仕事はおおむねやってくれるし、都内を中心として近距離であれば研修会にも付き合ってくれていました。でも、バスケットの試合・練習の日と重なると「絶対ダメ」でした。これだけは「交渉の余地がない」世界でした。

 こんなエピソードも聞きました。料理も大好きな山田さんはある時料理教室に通っていました。才能のある彼女はどんどん腕を上げて料理の先生に見込まれました。そして「指導者として勤務して欲しい」と依頼されたとのこと。好きな料理を仕事にすることは幸せな事なのでうれしかったそうです。ところが勤務時間は夜が中心。バスケの練習も夜が中心。即座に「お断りしました」と笑っていました。私も40代半ばまで空手中心の生活をしていたので、それはそれでよいことだと思っていました。

 私との仕事が2年間ほど続いたあとの2016年2月の定期検査でがんの再発が見つかりました。しばらく治療方法について調整があり、以前と同様に抗がん剤治療をするという方針が決まりました。私は完治したと思っていた癌の再発に慌てていましたが、山田さんは冷静でした。というのは、抗がん剤治療はワンクールの中で投与後に副作用が出て数日間動けない日ができるのですが、それ以外の日は元気で普通の生活をすることができます。「だから、それほど大変なことではないんです」と笑っていました。

 ただ問題は入試センターの仕事でした。このころの山田さんの仕事はフルタイムの全日勤務になっていました。それほど入試センターの仕事の実績があり、信頼されていたということです。となると副作用が出ている日の勤務をどうするかという問題が出てきます。パートタイマーでは有給休暇の仕組みがないようでした。或いは、あったけれども「迷惑をかけたくない」という山田さんの気持ちが大きかったのかもしれません。 

 山田さんが出した結論は「退職」でした。こういう時の山田さんの結論の出し方と行動は迅速です。私への報告はいきなりの「退職届を出しました」でした。「でも、小林さんの仕事は続けられます」とのことだったのでほっとしました。実際、入院している時も「電話とPCは使えますから」と平気な様子でした。この時の抗がん剤治療は順調でした。効果も着々で3ヶ月くらいで終了しました。この間、入院は2~3日、副作用で動けなかったのが3日間×3回程度でした。がん治療は簡単だなあと、私は感じていました。

 私の会社((株)AL&AL研究所)の会計年度は12月始まり11月終了です。そこで2016年12月に入るところから、山田さんとの契約を変更しました。それまでの業務委託契約から正式な社員として雇用することにしました。山田さんに税制などの点でメリットが大きくなるからです。私は彼女の功績からは、それくらいはしてあげて当然と考えていました。この時の私はその後、山田さんのがんが再発するとは想像もしていませんでした。しかし、再発してみると社員契約をしていたことが功を奏して健康保険から仕事ができない時期には「傷病手当」が出ることになりました。業務委託のままでは何もしてあげることができなかったかもしれません。これには私も山田さんも助かりました。

 また、入試センターをやめる前後だったような気がしますが、「転居します」と連絡がありました。聞けば、「パートナーと一緒に住みます」とのこと。ご結婚も間近かかなと思いました。そして、2017年9月18日にご結婚。私は花束をお送りしました。翌2018年9月には結婚1周年のお祝いの花をお送りしました。毎年、この日に花を贈ろうと決意していました。それが、そのわずか2か月後に終わりになるとは‥思いもよらぬことでした。

 私と山田さんとのお付き合いはわずか4年。短い期間でしたが、彼女の人生の節目にお会いできていたことにもとてもうれしいものを感じています。[この項続く]

心強いビジネスパートナーとしての山田さん

【山田さんの思い出②】山田さんはビジネスパートナーとして素晴らしいパートナーシップを発揮してくれました。

 出張のバックアップ以外で手伝ってくれたことの1つが本や雑誌の原稿作成と研修会資料の作成、研修会後の記録集等の原稿作成でした。まず、引き受けた仕事は全部共有カレンダーに書き込み、別のエクセルリストにも打ち込んでくれます。それらを見ながら督促してくれます。「明日締切の資料はできてていますか?」「〇〇高校から返送すべき書類が郵送されたはずなのですが、確認していますか?」「▢▢の書類は私(=山田さん)が作成しますから、こちらに回してください」‥という具合です。

 年間100回前後の講師を引き受けているとそれでもたまにミスが出ます。「山田さん、〇月〇日はどこに泊まるの?」「あ、予約していませんでした。すぐに予約します。‥少し高くなっちゃいました。すみません」。ある時は飛行機の遅れが原因で予定外の場所に宿泊しなくてはならない事態が出てきました。この時も「小林さんは、そこで夕飯食べて休んでいてください。その間に近くの宿泊施設を探して予約します」と対応してくれて私は快適な出張を続けることができました。

 単行本や雑誌の原稿を最初に読んでくれるのも山田さんでした。誤字脱字をチェックするとともに、感想も伝えてくれます。「私が教員だった時にこれを読んでいたら、もう少し続けていたかもしれません」と言われたこともあります。彼女の編集能力は高く、しばしば出版社の編集の方も気が付かない原稿の問題点を見つけてくれていました。

 この4年間、色々な会社の人が私を尋ねてくれました。面白そうな話を持ち掛けてくれます。ある人にはしばしば「人を見る目がない」「誰でも信じすぎる」と言われる私です。動き出しては違和感を感じ出すと山田さんに愚痴り、相談します。すると、「やめましょ。やめましょ。私もあの人嫌いなんです!私がお断りのメール出しておきます」という具合でした。それからは「あの人どう思う?」と山田さんに尋ねることが増えました。

 会社形式にすると節税はできるのですが、手続きは複雑で面倒です。領収書の保管と分類、見積書・請求書等の発行、更に入出金のコントロールと記録‥これらを山田さんはテキパキと正確にやり続けてくれていました。私がやると請求書1枚作るのにミスを続けて1時間もかかります。山田さんは10分くらいです。私はいつも「自分が情けない。山田さんはすごいよね」と言います。山田さんは「得意分野の違いです。私はこういう仕事が好きなんです。小林さんは指導する・研究する・文章を書く‥が得意で、人の役に立つのですから、そちらに集中してください」と応えてくれます。

 いつも「山田さんがいないと俺は生きていけないね」と笑っていました。今、まさにその事態が出現したことになります。税理士さんからも「できますか?」と心配されています。今月11月は弊社の決算月です。山田さんが亡くなる直前、「もう仕事ができない」と連絡をもらってから、手元にある数十枚の領収書を初めて私がデータ入力しました。やってみてビックリ。実にやりやすシステムを構築してくれていました。これなら私でもできるかも‥と感じています。わからないことも多々あります。これから1つずつ解決していきます。

 すでに昨日までの4泊5日の出張と、昨日の大阪から東京への移動とその他の出費の領収書の整理とデータ化は済ませました。私がこんなことができるとは思えませんでした。山田さんは私に「1人でも仕事してくださいね」と言っているに違いありません。彼女の最大の遺産は私を鍛えてくれたことなのかもしれません。[この項続く]

 

 

 

 

私を温かくサポートしてくれた山田さん

【山田さんの思い出➀】本日、山田香織(本名:神田香織)さんの告別式が終わりました。悲しさ、悔しさ、もどかしさ、そして感謝の気持ちが次々に湧き上がり混乱し続けています。私の気持ちの整理のためと、山田さんの最期の時期に比較的近くにいた者として山田さんの思い出を記しておきます。

 私が産業能率大学に入職したのは2014年4月でした。「アクティブラーニング」という言葉が少しずつ広がり始めていました。この年の3月から日本教育新聞に「アクティブラーニングが授業を変える」と題した連載も私は始めていました。

 この年の秋に山田さんは本学入試センタ―にパートタイマーとして勤めだしました。元々は私立中学高校の数学教師として仕事をし始めた山田さんでしたが、しばらく務めるうちに「合わない、無理」と感じて退職したとのことでした。その後、様々な仕事をしたのですが、その一時期に入試センター勤務も含まれていました。その後、別の仕事をしていた時期(2013年12月)に癌が発覚。仕事をやめて治療し、回復しました。

 元気になってきたところで、入試センターのメンバーとの縁もあり、リハビリを兼ねて少しずつ仕事ができるパートタイマーとして再び入試センターに勤め始めたのが2014年の夏でした。

 そのころの私は「アクティブラーニング」の広がりとともに講師依頼が急増し事務処理にかなりストレスを感じていました。それを見かねた入試センターの部長が「秘書を雇えば?」と提案してくれました。偶々、その直前に文部科学省のお金をもらう仕事引き受けたところ「会社組織にしてほしい」と依頼され、税理士さんに全部任せて会社の形にしてありました。そこで会社が山田さんと業務提携という形で秘書としての仕事をお願いすることにしました。

 この時の私は実にナーバスでした。私は元々、人付き合いが苦手で人見知りします。しばらくお付き合いがあって、ある程度親近感を持ってからなら依頼もしたと思います。しかし、部長からの提案の時までに私は山田さんが入試センターにいるどの人なのかもわかっていませんでした。自分が苦手なタイプの人だったらどうしようか‥とドキドキしていました。

 直接お会いしたとたんに全て杞憂だったと感じました。優しい人でした。温かい人でした。事務処理の能力も高く、私のストレスはあっという間に解消してしまいました。最初の山田さんの大活躍は2015年5月の出版記念パーティーでした。告知案内メールの発送、受付確認の返事、当日の会場手配や打ち合わせ、ボランティア学生の取りまとめや当日の指揮‥私は何もすることがない‥という感じでした。

 その後も色々な仕事を山田さんにお願いしていきました。講師依頼のメールのやりとり、電話での対応、日程調整、移動計画作成、ホテル・切符・航空券の手配‥それも実にきめ細かく‥少しでも安く、少しでも移動の身体への負担を少なく‥と心がけてくれました。一時期私が体調を悪くしてるときは、研修会講師の日程調整を整えるとともに先方に「小林は体調を崩しているのでお誘いはありがたいのですが、懇親会はご遠慮させていただきます」とか「20時には切り上げさせてください」などとメールをしてくれました。まるで私の母親のようでした。[この項続く]