授業中の「セレモニー」

【授業研究】仲間内での学習会のために「協同学習入門(杉江修治著/ナカニシヤ出版)」を読み始めました。冒頭部分で印象的なことが書いてありました。知り合いにはこの本のことを話題にする人は多かったのですが、この部分の話を聞いたことはないような気がします。読んだ人にはあまりインパクトがなかったのかもしれませんが、私には「同感!同感!」と声に出してしまいそうなうれしさがありました。骨子を紹介します。

 「(2)教育観の転換を」の「1)授業に見るセレモニー(p-2~)」の部分です。著者は次のように始めます。
 (引用開始)これまでの授業には「セレモニー」に過ぎないのではないか、すなわち、実効性はないにもかかわらず、授業の中でやることになっていると、教師も子どもも暗黙に了解し合っている儀式のような学習ステップが多くあるように思います。
 そのセレモニーの間、子どもたちの頭の中は十分には働いておらず、おのずから授業は隙間だらけの間延びしたものであり、真剣味の少ないものだということを子どもたちに教えてしまうことになります。(引用終了)

 ここで大事なことは「セレモニーでは子どもたちの頭が働かない」だけではなく、「セレモニーは間延びしたものであり、真剣味の少ないものだということを子どもたちに教えてしまうことになる」という指摘です。以下、例示されている「セレモニー」を要約していきます。

・子どもたちがわからないことを教師が一方的に話す。
  (→時間がくれば勉強したことになる、と子どもたちに教えている)
・授業開始時に前時の振り返りをする。
  (→単純な用語の確認なら教科書に書いてある。問答するほどではない)
・子どもに考えさせ、(指名して)発表させる。
       (→指名された、発表する子ども以外誰も聞いていない)
・指示が曖昧なグループワーク
  (→何を話し合ってよいかわからない、リーダーの子どもが苦労しているだけ)
・「わかりましたね」で授業が終了する。
  (→片付け始めている子どももいる)
 最後の部分は、大村はまも「わかりましたか?は禁句」と言っていことと同じことのようです。

 このセレモニーは150年間続いている気がします。自分が子どもとして経験した授業中の「セレモニー」を取り仕切ることが、「教師の仕事」と理解している先生たちが、その「セレモニー」をやらないと「教師としての仕事」をしている気にならないと理解すると良くわかる気がします。私は同じ視点に立って、以下も同様の「セレモニー」だろうと感じています。

・冒頭の「起立・礼・着席」。
・出席をとる。呼名して返事をさせる。
・座席は縦横きれいに並べる。
・先生は教壇に立つ。
・先生は板書をする。
・先生が板書をするときは子どもは黙ってじっとしている。
・わからなくても「わからない」と言ってはいけない
‥‥いくらでも出てきそうです。この先を読むのが楽しみになってきました。

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