「教育的な体験授業」の必要性(1)

【授業研究】最近のセミナーについて、スタッフ間でメールで意見交換をし続けています。その中でかなり共有できつつある意見が、「新しい授業を理解するには、生徒役として新しい授業を体験することが不可欠だ」というものです。しかし、「体験だけすればよい」とも言えません。そこで実践される「教育的な体験授業」の質と、その後に行われるべき「振り返りと気づきの構造」の質にも問題がありそうです。

 以下の順に述べます。

1   「新しい授業」を始めるのには、

  「生徒役としての授業を受ける体験」が不可欠である。

   (※この授業のことを「教育的な体験授業」と呼ぶことにします)

2 「教育的な体験授業」には必要な構造がある。

3 「教育的な体験授業」のあとに「振り返りと気づき」を促す構造が不可欠である。

 本日は「1」を取り上げます。

 私たちは、ドラマで人が殴られる場面を見ると「痛いだろうなあ」「こんなに殴られたら大けがをしそうだなあ」などと〈想像〉します。それは、似たような〈体験〉を持っているからです。ドラマの場面のように「何度も何度も殴られて気絶する体験」や「瀕死の重傷を負う体験」をしたことは大半の人にはありません。それでも、〈想像〉できます。例えば、「軽く叩かれた体験」を基に「その何十倍も痛いだろうなあ」と体験を膨らませて想像することで補います。

 これと同じことが「新しい授業」を見学した時に起きます。これまで「伝統的な授業=先生が一人で話し続けて、生徒は黙って聞き、ノートをとり続ける授業)」しか、受けたことがない人は、「新しい授業」を受けている生徒たちに起きていることを想像するのは困難です。

 その前に「伝統的な授業」を見学した時のことを上げることにします。これまで「伝統的な授業」をたくさん受けてきた私たちは、その形式の授業を見学するときには、生徒たちの気持ちをかなりリアルに理解できる気がします。例えば、「先生の丁寧な説明」を聞けば、「これなら生徒は理解できるだろう」と想像します。「先生の奇麗な板書」を見ると、これなら「わかりやすいノートをつくることができるだろう」と想像します。中には「黒板のこの絵をノートに写すのはとても無理だ」と感じる人がいるかもしれません。その人は、私と同じように「絵を描くことが苦手」な人かもしれません。

 生徒の様子を見ても想像できます。「眠そうな顔をしている」「横を向いている」「黒板を見ていない」「友だちとコソコソ話している」「教科書のページだけを見続けている」「頬杖をついて聞いている」「ノートを全くとっていない」‥これらの態度は「先生の話に集中していない」時の態度だと〈想像〉するのは、「つまらない授業を聞いている時の自分の行動体験」を基にしているのだと思われます。要するに、目の前の生徒たちが受けている授業と似たような体験をたくさん持っている場合には、現象形態から、生徒たちの「気持ち」もかなりの程度に想像できるということです。

  ところが「新しい授業」を見学するときにはこれができにくくなります。仕方がないので、自分たちのこれまでの体験をもとに「何倍にも膨らませて」想像することになります。例えば、「あんな短い説明では理解できるわけがない」「あんなにワイワイ話していて集中できるわけがない」「1人でやるほうが効率が良いに違いない」…という具合です。「新しい授業」に対する批判の大部分はこのような構造で起きている気がします。(この項続く)

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