学校教育がつくった「熟読の呪縛」?

【授業研究】何となく気になって読んだ本に凄いことが書いてありました。本は「遅読家のための読書術〜情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣〜(印南敦著/ダイアモンド社)」。1ページ読むのに5分かかっていた著者が、仕事で書評を書くためにたくさんの本を読まなくてはならなくなり、現在では年間700冊を読むとのこと。その体験から得た読書術を解説しています。その中には以下のようなことが書いてありました。

「いくら熟読しても実際には忘れていることの方が多い」
「遅読家というのは読書に対する真面目さを捨てきれない人」
「『熟読の呪縛』の発端はおそらく学校教育にある」
「『本を読むという行為は、著者の意図を一字一句正しく理解し、それらを頭の中に写し取ることである』という不文律を植え付けられているのです」
「‥‥熟読の呪縛にとらわれている人は、まるで教師の解説や板書を逐一ノートに書き写す生徒のように本の内容をせっせと頭にコピーしようとしている」
 私の物理授業は15分間で他の物理の先生がふたコマくらいかかる内容を説明しています。その効果は「生徒が全体像をとらえやすい」ということにあると言えそうです。いくら丁寧に説明しても生徒たちは「忘れてしまうことの方が多い」のですから。むしろ、長時間にわたって説明すればするほど「忘れることが多くなる」とも言えるかもしれません。
それでも、全部を説明しないと生徒は理解しないはずだと考えている先生たちは「熟読の呪縛」と似たような不文律を植え付けられているということなのでしょうか?
 世界中の大人たちが持っている性質は「学校教育という共通する体験の中で身に付けたものだ」というピーター・センゲの主張(「学習する組織」)にも共通するものがあります。