流派やセクトの争いを超えて進めないものか?

【雑感】Pさんに教えてもらった教育関係のサイトでは授業に関する論争が繰り広げられていました。Q先生がTVで放映された授業について厳しい批判を最初に書きました。これに対して、激しい賛否が続きます。中には個人攻撃も。
 この背景はどうやら、Q先生が批判した授業は「あるグループの方法」だったことに原因があるようです。このようなグループ間の対立のことを私は「流派・セクトの対立」と呼んでいます。私が長年いそしんだ空手の世界には200もの流派があるといわれています。その流派間で常に他の流派を攻撃し合っていました。「流派が異なる」という多様性は少しも発達の原動力になることはなく、むしろ、空手界全体のエネルギーを減退させているように感じていました。
 また、高校時代に学生運動に力を注いでいた私は学生運動セクト間の対立・抗争に巻き込まれていました。「民青」「革マル」「ブント」「赤軍派」などと呼ばれるたくさんのグループが、しばしば実際に闘い、けが人や死亡者がでることもありました。どのセクトも現体制を批判し、資本主義打倒を目指していたはずなのに、セクト間の対立・抗争の果てに革命運動自体が自滅したような感じがします。
 そんな体験から、私は「流派・セクトの対立」が嫌です。「違い」に目を向けて争いにエネルギーを費やすのではなく、「共通点」を共有して日本の未来のために「協同・協力」していけないものでしょうか?
   どの授業研究も授業中に生徒同士の「協同」「協力」「助け合い」を大切にしています。生徒たち一人ひとりには個性があり、能力の違いがある。だから、みんなが協力する大きな力になる、と言っているような気がします。生徒たちにそれを求める「先生たち」が、共同できなくて日本の授業改善が進むのでしょうか?