山田さんの最期の仕事

【山田さんの思い出⑥】10/20(日)の大阪のオープンセミナーには山田さんは体調が悪くて参加できませんでしたが、その後も私の仕事のサポートはあまり変わりなく続けていてくれました。ある抗がん剤が12月から使えるようになるというので、それに対する期待も膨らみました。ただ、内臓エコーの結果は肝臓に転移。その影響が出てきていました。

 11月に入ると39度を超える発熱もありました。私のサポートは休み休みになりますが、それで続けてくれていました。私が「それは私がやっておきます」という仕事も少しずつ増えてきました。

 山田さんはこの状況の中でも情報を集め、新しい治療にチャレンジしていました。更に、その先も見通して準備をしていました。そのひとつが介護保険でした。傷病手当は2019年5月までという支給期間制限がありました。そのあとに継続するシステムとして介護保険があるとのことでした。山田さんのそれを見据えて調べ、申請し、担当者とのやりとりも始めていました。この精神力は凄まじいものがあります。もし私が山田さんの立場だったら、「辛い、苦しい、もう全部やめた‥」と自分の人生を投げ出していたと思います。

 11/12(月)。山田さんからのメッセージ。 

「〇〇社にセミナー謝金の請求書をお送りしたのですが、金額を間違えてしまい再送することになりました。入金も先になってしまいました。すみません」

 こんなミスは山田さんにはありえないことでした。私はここが仕事を切り上げさせるチャンスだと思いました。

「はは‥りょうかいです。明日の夜、池袋での会議の後でご自宅に伺いますよ。

 その書類の再送も私がやります。ハンコなどをお渡しください」

 すぐに了解の電話がありました。山田さんも「限界」と感じたのだと思います。この請求書の再送付は私が会社印等を取りに行く前に済ませてありました。この請求書の郵送が山田さんの最後の対外的な仕事になりました。

 ご自宅に行って少し話をして会社印等を受け取りました。思ったよりも元気そうでした。そして、いつも笑顔で対応してくれました。新しく来ていた子猫がいたずらするのを「これっ!ダメ!」と叱りながら抱き上げる様子は実に微笑ましい姿でした。

 「じゃ、しばらく事務的な仕事は私がやります。山田さんは治療に専念してくださいね」と挨拶して辞去しました。結果的には、これが私が山田さんの生前の姿をみた最後になりました。[この項続く]