山田さんの癌治療、バスケ、結婚、仕事‥

【山田さんの思い出③】山田さんは2013年12月に癌が見つかり治療し、2014年秋から産能大入試センターでパートタイマーとして勤務し始めました。そのころから私との仕事も始まりました。私は彼女が以前にがん治療をしていたことは聞いていましたが、元気なので癌は完治したのだろうと思っていました。入試センターの仕事と私の仕事をこなし、更にバスケットにも熱心でした。

 このバスケットは山田さんを語るときに欠かすことはできません。山田さんはバスケットが大好きなのです。生活はバスケットの練習や試合の日程が中心でした。私の仕事はおおむねやってくれるし、都内を中心として近距離であれば研修会にも付き合ってくれていました。でも、バスケットの試合・練習の日と重なると「絶対ダメ」でした。これだけは「交渉の余地がない」世界でした。

 こんなエピソードも聞きました。料理も大好きな山田さんはある時料理教室に通っていました。才能のある彼女はどんどん腕を上げて料理の先生に見込まれました。そして「指導者として勤務して欲しい」と依頼されたとのこと。好きな料理を仕事にすることは幸せな事なのでうれしかったそうです。ところが勤務時間は夜が中心。バスケの練習も夜が中心。即座に「お断りしました」と笑っていました。私も40代半ばまで空手中心の生活をしていたので、それはそれでよいことだと思っていました。

 私との仕事が2年間ほど続いたあとの2016年2月の定期検査でがんの再発が見つかりました。しばらく治療方法について調整があり、以前と同様に抗がん剤治療をするという方針が決まりました。私は完治したと思っていた癌の再発に慌てていましたが、山田さんは冷静でした。というのは、抗がん剤治療はワンクールの中で投与後に副作用が出て数日間動けない日ができるのですが、それ以外の日は元気で普通の生活をすることができます。「だから、それほど大変なことではないんです」と笑っていました。

 ただ問題は入試センターの仕事でした。このころの山田さんの仕事はフルタイムの全日勤務になっていました。それほど入試センターの仕事の実績があり、信頼されていたということです。となると副作用が出ている日の勤務をどうするかという問題が出てきます。パートタイマーでは有給休暇の仕組みがないようでした。或いは、あったけれども「迷惑をかけたくない」という山田さんの気持ちが大きかったのかもしれません。 

 山田さんが出した結論は「退職」でした。こういう時の山田さんの結論の出し方と行動は迅速です。私への報告はいきなりの「退職届を出しました」でした。「でも、小林さんの仕事は続けられます」とのことだったのでほっとしました。実際、入院している時も「電話とPCは使えますから」と平気な様子でした。この時の抗がん剤治療は順調でした。効果も着々で3ヶ月くらいで終了しました。この間、入院は2~3日、副作用で動けなかったのが3日間×3回程度でした。がん治療は簡単だなあと、私は感じていました。

 私の会社((株)AL&AL研究所)の会計年度は12月始まり11月終了です。そこで2016年12月に入るところから、山田さんとの契約を変更しました。それまでの業務委託契約から正式な社員として雇用することにしました。山田さんに税制などの点でメリットが大きくなるからです。私は彼女の功績からは、それくらいはしてあげて当然と考えていました。この時の私はその後、山田さんのがんが再発するとは想像もしていませんでした。しかし、再発してみると社員契約をしていたことが功を奏して健康保険から仕事ができない時期には「傷病手当」が出ることになりました。業務委託のままでは何もしてあげることができなかったかもしれません。これには私も山田さんも助かりました。

 また、入試センターをやめる前後だったような気がしますが、「転居します」と連絡がありました。聞けば、「パートナーと一緒に住みます」とのこと。ご結婚も間近かかなと思いました。そして、2017年9月18日にご結婚。私は花束をお送りしました。翌2018年9月には結婚1周年のお祝いの花をお送りしました。毎年、この日に花を贈ろうと決意していました。それが、そのわずか2か月後に終わりになるとは‥思いもよらぬことでした。

 私と山田さんとのお付き合いはわずか4年。短い期間でしたが、彼女の人生の節目にお会いできていたことにもとてもうれしいものを感じています。[この項続く]